昭和53年04月03日 朝の御理解
御神訓 一、「神徳を受けよ、人徳を得よ。」
一、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」
(今度の)御道の信心は、御神徳を受けると言う事。御神徳を頂くと言う事が、教祖様によって説き明かされ、しかもその御神徳を頂くためには、どういう信心をさせて頂いたら良いかと言う事が、まあ色んな角度から説かれるわけであります。だからどうしても金光様のご信心はね、結局神徳というと大変、まあ神徳を受けるために信心するというと、きざに聞こえるんですけどもね、結局は信心を頂くと言う事なんですね。おかげを受けると言う事は信心を頂くと言う事。
これはどういう信心をさせて頂いたら、神徳が受けられるかと。神徳とはまあ色々説かれますけれども、一番やはり分かりやすいのは、久留米の初代が、言うておられたというように、御神徳とはね。神様のご信用じゃと言われる。天地の親神様のご信用そのものが御神徳である。そこでその天地の親神様のご信用を受けるために、なら天地の親神様のお心を、先ずは知らなければならないね。
昨日は福岡の高橋さんのお宅の宅祭りで、まあそれこそ華麗なお祭りでした。こちらからも沢山おかげ頂きまして、まああちらでもう行く時分から、少し気分が悪かったんですけれども、とにかくこう寒気がしてどうも本当にもう、御無礼肢体位な様な気持ちでした。あちらへ参りましてからも一生懸命、まあ御祈念をさせてもらったり、いわゆるお祭りを奉仕させて頂いたけれども、やっぱりあの気分が悪い。今日はとてもご直会の段じゃないなと言う様な気でした。
そしてお祭りを頂き終わってしもうて、お話をさせて頂きだしましたら、まあ一生懸命お話を二、三十分もさして頂きましたでしょうか。そのころには何かこう自分でも顔色が良くなっただろうと、思われるくらいに気分が良くなっておかげを頂いて、まあ帰りましたけれども、まあその話が済んでから、皆さんに聞いて頂きましたんですけども、神様へ向かう一生懸命というのはね。
もう確かにこの健康だけの事ではない。もう全ての事が神様へ一生懸命向うたら、ほんの今まで気分の悪かった、身体の具合が悪かったのが、気分が良くなり身体の調子も良くなって、とてもご直会なんか頂けまいと思うておったのが、結構やっぱり頂けるほどしにおかげを頂いた。それから頂き終わってから帰ってまいります。帰る時にはもう正義先生の大きな車でしたから、行きよいからあの毛布を持ってきとりましたから、毛布をこう敷いて長くなって、まあところが今度はもう足が痛む事足が痛むこと。
もうずっとこうやってその寝ながら、自分で足を叩きながらね参りよりましたけれども、とにかくもうじっとしておられないと言う様な感じです。それでまた起き上がりましてから、もうところが起き上がった途端に、足の痛みが止まりましたですね。もうずうっとこう足を叩いて来よりましたのが、叩かんですむんです。ははあ姿勢を正したという、さあもう楽をしながら、私自動車の中で家内に話してきましたけれども、「この神様ち不思議な神様ばい」ち。
もう楽をしようと思うと楽ばさせんという働きが始まる。もう楽はせんと思うたら楽をさせて下さる。不思議な神様ね、何時も体験することだけれどもね。もう本当にもうとって覗くような感じですよね。もう大体今日は行きがけから、身体の具合も悪かったから帰りがけも楽をしながら、長うなって帰る。もう長うなった途端に足が痛むんです。こら気付くところがあって起き上がった。起き上がった途端に足を叩かんですむようにです。で家内にね「この神様ちゃ不思議な神様ばい」ちね。
楽しようと思うたらさせまいとする働きがありね。もう楽はしまいと姿勢を正しただけで、もう足を叩く事も何も要らん帰ってくるまで、おかげを頂いておりますね。もう本当に文男先生と二人でお祭りを取り仕えさせて頂きましたけれども、もう本当に今日こらお祭りが仕えられるじゃろかというごときつかった。お祭りを仕え終わって一生懸命お話をさせて頂いておるうちに、こう気分も上気したように顔色も、勿論良くなっただろうと思われるように、もう何かスッキリしたものを感じさせて頂いたね。
だから信心というのはね、やはり一生懸命にならなければ駄目だと言う事ですね。そして姿勢を正さなければならないと言う事ですね。いうならば信心の構えと言う事を言われますね。柔道するでも剣道するでも先ず構えが要る。こらお茶の稽古するでもやはり一つの構えというものが要る。先ず構えを正さなければいけない。姿勢を正さなければいけない。そして一生懸命にやはり一心にならなければいけないね。おかげは例えばよし頂いても、信心を頂くと言う事はね。
姿勢を正して一心になると言う事。信心が分かったら、分かるとはどう言う事かというとね。天地金乃神様のお心を分かると言う事が、信心が分かると言う事。昨日も高橋さんの所でお話させて頂いて、私は本当に残念に思う事がある、はっははと言うてまあ本当言うたらその、私はそんなに残念に思う事があるだろうかと。成程毎日ここにこうして御用させてもらって、まあ昨日なんかは日曜日でもありましたし、もう朝からもう本当に信心の喜びを、ここでお取次ぎさせて貰うておかげを受けた。
おかげを受けましたというお取次ぎさせて頂く時に、本当にお取次ぎさせて頂くものの冥利を感じますね。ところが信心を頂いて、おかげを頂くというのと、おかげを頂いて有難いと言うのとは、違ってくるんですね。どんなにおかげを頂いてもですね。どんなに言うなら奇跡と思われるようなおかげを受けてもです。信心が分かり信心を頂いていない人達の言う事、することを聞いたり見たりする時ほど残念に思うことはない。あんたもう何年信心しよるのと。
信心じゃない、結局ご利益目当ての信心ばっかりだから、そんくらいの事も分からんね。そういう時に私は本当に残念に思う。信心を頂くね。それは天地の親神様のお心を分からせて貰うて、お心に沿い奉る精進をすることが信心。それにはまず姿勢を正して一生懸命にならなければならない。「神徳を受けよ人徳を得よ。」「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。」と、そういうほんなら、神徳を受けるためには、どうあらなければならないかというと、その次に「わが心でわが身を救い助けよ。」と、
わが心で自分の身を救い助けよ。昨日の私のまあ福岡から帰ってくる、その事は自分の心でわが身を救い助けたことですね。姿勢を正したということだけでね。いうならば楽はせんぞと決めた途端に、楽をさせずにはおかんという働きが受けられると言う事ね。わが心でわが身を救い助ける。「信心する人は何事にも真心(しんじん)になれよ。」と、信心する人は何事にも真心(しんじん)になれよと言う事を、まごころになれよとあるね。まごころの追求「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。」と。
段々信心の稽古をさせて貰うと、親神様の心が分かるようになる。親神様のお心に沿い奉ろうという生き方になるとね。心の目が段々開けてくる。昨日神戸の和田さんがご信者さん、一緒にお礼参拝して見えております。先日から息子さんの大学受験で不合格になった。不合格その事が有難いとしてね。お礼のお届けがあった。これは陽子さんだけではないご主人の修さんも、やはり一緒にもう本当におかげを頂いたと、いうならばその思いを形に現してのお礼であった。
これは肉眼をおいて心眼を開いた者の姿なんです。やっぱ何か神様のご都合ち思います。と熊谷さんなんかはあれほど言うなら、高校のときに太鼓判を押すように先生から言われた大学が通るち言うて。それが三年間も通らなかったね。そして初めて分からせて頂いたことは、神様のこういうおかげを下さろうとする、神様の御神願であった願いであったと言う事が、三年後入学して就職して段々分かってきた。そういう話を幾らも聞いとるから、やっぱ自分方もそげんじゃろと、例えばまあ思う。
だから「おかげじゃろと思います。神様のご都合だと思います。」という間は、まだ本当に開けとらんとね。「不合格のおかげを頂きまして有難うございました」と言うて、自分の思いを形に現してね。お礼のお届けがしかも息子の不合格であると言う事を、話し合われたわけでもなかろうけれども、銘々に、その事の手紙が参りました。不合格御礼のお届けって言うのは珍しいですね。
だから私はそん時に直ぐ申しました。ちょうど一緒に山口からもうこりゃ通らんと言われとったのが、通ったと言うてもう一緒に来た手紙が。片一方は手紙で来た。そしてもうみんなが不思議不思議というとりますというお礼の手紙だった。ただそれだけだった。ところが和田さん方の息子が、不合格のおかげを頂いたと言う事にはお父さんも手紙の中に、言うなら現金封筒ですから現金、お供えをさせて頂いてお礼を言うてる。
お母さんがほうはもう尚更のこと、もうそれこそ何枚もの便箋にそのおかげを受けたと言う事を、面々と母親の思いを書き連ねての御礼のお届けであった。だからこら不合格にならにゃ、大体いかんごとあるのと私が言うて、みんなに言うた事でした。はあ不思議なおかげを頂いたち言うたら、ただ不思議なおかげを頂いて、みんながたまがっとりますというそれだけのこと。和田さんの場合は不合格のおかげを頂きましたと言うて、それこそ、ちゃんとお供えやら出来ておる。
これはね肉眼をおいて心眼を開かなければ出来る事じゃないですね。そしたらちょうど、昨日一昨日の私の誕生日の祝賀の会が、半ばに電報が来てね。親先生お誕生日おめでとうございますと同時に、息子が第二次試験で合格のおかげを頂いたと言うて電報が入った。そして神戸から今度はもう、それだけでは相すまん。また昨日お礼のお届けで、そこに今参ってきておられますね。私はねこれはもうおかげを受けたじゃなくて、神徳を受けると言う事はそういう時に受ける。
神徳とまではいかんでも、神様のご信用いやあの女御はもう大丈夫というこつになりはせんじゃろかのや。何かちょいとお日切りのようなもんやるとてんでニコニコ笑う。反対にそのお日切りのごたっとば、取り上げどんするとべっそつらするね。親神様の思いにね。の深さまた親神様のなさることに無駄のあろうはずは無い。私は本当に金光様のご信心というのはね、人間の浅はかな思いが成就したときだけ、有難いのじゃなくてそれの反対のときにもです。
一つはあここが肉眼をおいて心眼を開かなければならない時だなと、一遍思うて見て心の目を開かせて頂く、いや開けんにしても日頃頂いておる教えを、心の中に頂かせて貰うたらこれはどっこい、不平どん不足どん言う事じゃないばい、これはお礼申し上げんならんことばいと、分かるぐらいなところまでは行かなければね。金光様のご信心をいただいとる値打ちはないですね。「わが心でわが身を救い助けよ。」私は福岡から昨日帰ってくる時には、私は自分で自分の心を身体を自分の心で救い助けたこと。
はあこりゃ楽をしながらではおかげ頂かんばい。姿勢を正したというだけでね。楽をいうならばこの神様ちは不思議な神様だとね。楽をしようと思うとさせまいとする働きが起こってくる。ほんならもう楽はせんぞという気になると神様が楽をさせて下さる。不思議な不思議な神様じゃとね。そういう場合この神様は皮肉な神様だなという人もあります。本当に皮肉のごとある。「信心する人は何事にも真心になれよ。」とね。肉眼をおいて次の行動それが真心です。
いいですかね。肉眼人間的な見方を外して心の目を持ってする。はあこれはおかげだと思うて、それを形に現した時にそれを真心というのである。はあおかげ頂いて有難うして応えんというて、お礼するとはそれは大した事はなかですよね。誰でん当たり前の事ですね。普通から言うたら不合格という、いうならば悲しい事であったり、残念な事であったりというごたる時に、と日頃頂いておる信心を思うてみらせて頂いたらね。
ここで心の目を開かねばならん時だと気付かせて頂いて、心の目を持ってみたら、こらあお父さんおかげですよと言う事になったのじゃないでしょうかね。おかげで子供が勉強に本気で取り組むようになった。子供が本気で神様を拝むようになった。もうこれだけでもお父さん、おかげですばいと言う事になったのじゃないでしょうか。心の目を開くそして心の目を開いてね。そして不合格御礼のお届けが出来る。
それが真心だと思うね。はあおかげ頂いてお供えする、それが真心のごつそれが真心どころか、それは当たり前の話じゃないか。おかげ頂いてからそれこそしろしいでニコニコ。反対の時には反対の顔する。これでは日頃頂いておるしね。今日は神徳を受けよと。神徳をいうならば、受けて長生きをせよとか。神徳を受けて、人徳をまた得よとかね。御理解に基づいてのことです。
そういう時にです、神様のご信用というのは付いて行くのじゃないでしょうかね。ほらおかげ頂いて、熱心にお参りしなさる。はあなかなか御用も出来なさると、当たり前の事。「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。」とあるわけですね。そういういうなら信心の内容と言うものが頂けた時に、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」と言う事は生きたくばね。だけではない百万長者になりたいと思うならば。
神徳を受けて、百万長者になれよと言う事も言えるわけですね。わが身でわが身を救い助けれるような心の使い方。同時に姿勢を正していく生き方。これはまだ信心が足りんのだと、一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられるという。ほんなら私が昨日はお祭りを仕える間はきつかったけれども、いよいよお話しを始めて一生懸命それこそ、我を忘れてお話をして折る三十分の間にね。
いうなら元気な状態になっておると言う事。まあだ一心が足りんのだ一生懸命が足りんのだと、我を忘れる位な一心が出なければ出来んと言う事ね。姿勢を正すと言う事ね。信心するものは何事にも真心になれよ、信心になれよと真心になれよとある。真心とは真心とはとほんなら、真心の追求をさせて頂いて、段々分からせて頂く事は、普通で言うならばいうならば、反対不合格なら不合格と言う事の、はあ残念神様がそうにゃお願いしたばってんが、おかげ頂きらじゃったと。
おかげ頂きらじゃったじゃない。それがおかげだと分からせて貰うね。分かっただけじゃない、それを形に現した時に、それが真心だというう風に今日は聞いて頂きました。「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。」私共が何時も肉眼をおいて心眼を開いておくというほどしは、もうこれは御神徳の世界ですから、そういうわけには参りませんけれども、私共が日々はあ困ったね。
そらどうするかと言う様な時にです。日頃頂いておる教えを心の中に頂きますと薄らパーッとではあるけれどもね。心の目が開けてくるんです。はあこれが心眼を開くことだろうかと、いうなら心の目をもってすると、その残念であるとか無念であると言う事が、有難いと言う事に変わってくる。初めて有難いという心が起こってくる。その有難いという心が形に現されていくことが真心だと言う事を、今日は聞いて頂きました。
どうぞ。